昭和51年05月30日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
尽きぬおかげが頂けれる話。いわゆるそれはお徳を受けれる話と言う事だと思うですね。尽きぬおかげを受ける、無限。限りなくおかげが受けられるということは、金光大神の話の全ては、いわゆる御神徳を受けさせてもらう、受けるお話ばっかりだりと思うんです。日々皆さんがお参りをさせてもろうて、日々ここでお礼のお届けをなさいます。そのお礼のお届けをなさるように、これを人に伝えていくということが大切です。
先日から壮年部会の時に久留米の石井さんが言うておられましたが、御礼信行ということを言われます。その御礼信行というのは、教団でも早くからあのうもう言うとるのですよと言ったら、それは自分は知らなかった。けども私が言う御礼信行というのは、毎日毎日おかげを受けておるその体験をです、お礼と思うて神様へのお礼と思うて、それを修行と思うて人に伝えていくということだと。
だから合楽にこんなに沢山お参りになっとられる方達が会合をした時には、例え三分ずつでもよいからずらっとこの並んどいてもう、つつあったりつつずっと次々に三分ずつ位毎日、私は昨日こげなん体験をした、こんなおかげを頂いたというて、お礼をみんなに聞いて貰うと言う事、その事がお礼になるのだ。それを修行としなければいけないと、新たな開眼をしたという意味のお話をしておりました。本当に信心のない今私は毎日お参りさせてもらいよるが、今日はこげなん有り難いお話を頂いた。それも体験です。
だからそれを伝えて行く事が神へのお礼であると同時に、それを修行信行と思えというのです。私はそういういわゆる神へのお礼ぞと言われる、その神様へのお礼が出来る。それが人が聞く、そして人が助かっていく手掛かりともなるということになってくる時に、初めて真の道を踏んでいくのだということになる。特別に真の道というのはあるというのじゃない。自分がつくっていかなきゃいけない。それを人に実意丁寧に伝えて行く、話をしていくのが真の道を踏んでいくのぞと教えておられる訳です。
真の道はこんな道ですよというのじゃない。自分がおかげを受けて、一言でも有り難いと思うた事。実感した事を人へ伝えていく、それが神へのお礼。ましてやそれが、それをならお導きということになり、真の信心をさせるということになれば、いよいよもってお徳を受けていくということにもなる。神へのお礼ぞと言われるのですから。昨日は敬親会でございますから、お年寄りの方達のいわゆる信心研修で、まぁいろいろとお話を聞かせてもらったり、させてもらったりした訳ですけれども。
まぁお婆ちゃん達はお婆ちゃん達なりに、おかげを受けておられる。昨日はそういうあのうお話が次から次へと出て来たんですけれども。私はあのう昨日熊谷さんがあのうお届けに来てみえてから。昨日は先生、私は大変なおかげを頂きましたと。そこの事務所にまいりましたら幹三郎先生が何か紙をそのう書いておられる。立派な字で書いてある。立派な字ではないですけれどもそう言われる。書いておられるのを読ませて頂きましたら、こういうことが書いてありましたと。
「金でなく物でなく、和賀心で潤う事を覚えよう」と書いてあった。金でなく物でなく和賀心で潤う事を覚えようと。信心とはいうならばです、金儲けさせて下さい、物を与えて下さいということじゃない。自分の心で物じゃない金じゃない。自分の心一つで自分の心がいつも有り難いという、いうならばお湿りの後の様な潤いというものがです出来る。そういう心が自分の心で潤す事が出来る様な、生き方を覚えようというのである。日々お互い稽古させて頂いておるというてもです。
それには金がつき物がつき、あれを頼まんならん、あれを願わねばならんからであって、それもおかげでしょうけれども、先ずは自分の金じゃない物じゃないおかげじゃない。いわゆる御利益じゃない。例えば御利益のない世界であっても、自分の心一つで自分の心の中に潤いを感じれれる事を、覚えていこうとこう言う風。あぁそりゃ良かこつを書いとりましたねと言うて、昨日の敬親会の方達にそういう話をさせて頂いた。
ここの合楽の中村スギさんというお婆ちゃんがおられます、まぁもう先生七年前に主人が二十日間も秘結をしてお便所に行きませんでした。それでここにお参りをしてその事をお願いさせて頂きましたら、もうその晩早速おかげを頂いて、それこそあの七年前にそれを言うておられた、私も覚えておったんですけれどもね、もうそれこそもうステッキんごたるとを行きました。私はお爺ちゃんのお尻をもうそん時程、それこそ一生懸命出るとを眺めながら、拝んだ事はなかった。
この神様ちゃほんに打てば響くごたるおかげを下さる神様ていと思うて、それから私は便器を扱うとき便所に行く時、もう拝まん事はないようになりました。おかげで七年間私は以来その秘結をした事がない、それでこりゃその村内の誰かれにでもそれを話していた。もう便所ば拝みなさい、もう一生懸命拝みなさい。もう秘結は絶対せんばのと言うて、あなたの話しを聞いてやっぱ拝ごだら、やっぱほんなこておかげ頂くばのというて、もう七年間この方私はそれ以来秘結を致しません。
村内の方達にもそれを話して、おかげを頂いてございますと言う発表をされました。もう本当にあのう何と言うんですかね、純真そのままのいわば信心の在り方がおかげを受けられるんでしょうね。椛目の宮崎さん所のお婆ちゃんが発表しておられました。先日からその自分がそのう鍋をそのガスにかけておいて、その間草取りをしよった。そしてかけておる事をちゃんと忘れておった。それをあぁたあのうもうその時分にゃ息子達夫婦が家におる筈はなかばってん。
合楽にお参りをして来てそのちょうど時ならんところに帰って来た。そしてもうもちろん鍋は空になってしもうとる、黒焦げになってしもうとる。もう寸前でおかげを頂いてあのう消して、大難に至らずにおかげを頂いて。やっぱ神様のおかげちゃあるばのと言うてからいう話しをされました。だからそういうおかげを頂く。私は昨日このなら潤うということ。金じゃない物じゃない。自分で自分の心が潤う事を覚えていこう、稽古していこうというのが信心。
それを例えばおかげということだけに、心をとらわれるから心が潤わなかったり。そしたらどなたかが言っておりました。とにかくこげんしてお参りをしただけでん、心が潤うとですよと言うてから言いよる。その上こげん有り難い話しを頂いてよけい潤うと言われるから、そのいわばお参りをするだけでも心が潤う。お話しを頂いただけでも心が潤う。それを頂いて帰ってそれを実行するなら尚潤う。神様のおかげというのは降る雨のように、それこそおかげの元喜びの元。
いうならお徳の元が雨が降るようにあっとんだけれども、氏子の心が潤うてない。いわゆるばさばさしておる。だからどんなに良い種をまいて頂いても、芽も出切らんと言う事になる。芽をきったかと思うと潤うたのが又すぐ乾き切ってしもうて、喜びがいわゆる潤いというものがないから、芽をきったかに思うていても、またそれが涸れてしまう惜しい事だ。潤うということはそういうやはり努力がいるんだということを、まぁ色々と聞いて頂きました。
昨日は人の手本になる様な信心をせよ。一人がおかげを頂いた為に千人も万人もおかげ頂く様になる。その手本になる様な信心ということを、安東さんの先日の宅祭からまた村内の方達があんなに沢山、安東さん所へ毎日お参りにみえる。そしてお話しを聞かれる事を楽しんで参って見える。本当にそれこそ幽霊屋敷で有名で、夕方ともなるともうそこの前を通る人がないという位に、いうならば本当に幽霊屋敷同然の草茫々の家を借られて、そして安東さんが住み着かれただけでも、やはり村内の中でもびっくりした。
その事を大体知ってから借りなさったとじゃろうかと。いくらみんなが借りても、それこそ一月とそこの家に長く住まれた人がないと言われる家にです、半年続き一年も続くところにいよいよ不思議なこっちゃある。そして金光様の信心をしなさるげなというところからです。お話しを聞きに来る様になる。
もう幽霊屋敷どころか寂しいどころか、もうそれこそお話しに聞きにくる人達でにぎわおうとる。おかげで野菜米やらは買う事がないと言われるくらい。毎日合楽まではお参りきらんけん、どうぞお願いして下さいと言うて、お初穂をもってお願いにみえると、毎朝お参りをしてきて、何人分かのお届けが必ずある。何十年間信心をしておられるが、決してならその商売が繁盛しとる、仕事が順調にいっとるということではない。
むしろそれとは反対に、それこそ難儀の連続であるけれども、その連続の難儀の中に神様のおかげを思わなければおられないものがある。おかげで勿論信心が続いておる。その続いておる間にです、いわゆる信心の真を現して、それを近所の方達にでも掴まえてから話しを聞いて下さいと言う様ななら問題ですけれども、来られて求められてお話しをされるのですから、お話しがなんぼでも出来る。何十年間頂いたお話しが、本当にどっからでるか分からんように有り難いお話しが出る。
まぁちょっとした信心の手本だという昨日の御理解でしたね。いわゆる神へのお礼が出来ておる。そこでなら安東さん一家があぁしたなら安東さん一人の信心が、あの難しかと思われておったご主人が一緒にお参りされる様になり、息子さんもこの人は妙な人と思いよったが妙な人所ではない、実に素直に両親に付いて見えて、毎朝三人でお届けをされるのは、先ずは勇治さんが右と願うと、お父さんが左の事を願われると言う様な感じだったのがです、もう勇治さんを中心にしての、いうならば一家信心になられたと言う事。
そこで後に残されておる者はです、どういうことかというと、信心とはやはりおかげを受けて、人へ伝えていくと言った様な、真を現して行くというところからです、自分の心が潤うていくことの努力、精進ということからです。私は改まる事だと思うです。まぁいうならば、安東さんところでは銘々の、いうならばそれこそめぐりと言わなければおられない、きついものを持っております。みんなが持っております。それに気づかせて頂いて本気で、私は改まるということのおかげを頂くということ。
そこから本当のおかげが頂けて来る様になるだろうと思います。今日は私はあのう改まると言う事で、本気で改まろうという気になったらもうどんなに難しい事であってもです。もういよいよあのう改まると言う事に、その腹を決めたら神様が必ず現れて下さるというのです。先日私はその事を、あのうテレビを見せて頂いとりましたらね、なんかこう田川郡のあのう炭鉱地区を中心にした、何かそういうテーマのそのう映画があってます。何とかという有名な女優が主演してますよ。
何とかと言うっとった。主人が亡くなって息子と二人で生活をしておる訳です。そしてあのう終戦のどさくさのところの場面でございました。それが日頃あのうそこの女土方のような事をしておられる、上役の人がその人が器量がいいもんだから目をつけておる。その誘惑をするけれども、もう絶対誘惑に負けてはならないという、そのう心を固くしておるそこへ終戦。そこへどさくさというかやけくそというかそう言う様な事で、その人を手込にしようとする場面がございます。
そしてもうあわやという時に昔の主人の友達が現れてそれを助けてくれる。その場面を頂くんです。だから自分がですもう本気で改まろう。もう絶対そげな事があっちゃならんと腹を決めたらです、必ずいよいよの時に神様が現れて下さるということを今日頂くんです。もうこれだけはしょうなかてんなんてんと、言う様な事だから何時までたっても改まれんのです。だから本気でですね、本気でこちらが改まるという気になったらです。心を固く誓ったらです。
もういよいよぎりぎりの時に神様が救いの働きを見せて下さるということです。そして今日私が頂きます事は、その力こそがしんの力であり。その力こそが徳にと頂きました。確かにですもうやはり人間が二人見る様に変わると言う事は、その人が改まった時です。改まるもうこれはもう自分のこりゃこんな業だから。まぁ先日からのお話しを頂きますとです、自分の様な者でも神様が救い助けて下さるというのは、そういう決心のつくまでのいうなら過程の話です。だから本当はそれを改まらなければいけない。
改まるという決心をしなければならない。翻然として出来る。その時にですその辛抱する力こそがです。例えば誘惑に負けてはならんと、その精神その辛抱その努力こそがです力になるのです。だからんならあのうもうここまでは辛抱できるけれどもここからが辛抱できん。辛抱とはもう辛抱が出来んという所をね。桂先生と小倉の二代であります桂ミツ先生の問答がそうでしたですね。
何回も何回も大変厳しい親先生ついて、もういよいよ持ってんというごつなられた。もうとうとうご本部に帰られて四神様にその事を申し上げられた。四神様がおミツさんつらいかと。もう辛いのなんのじゃございません。他の辛抱ならどげぇんでも辛抱しますけれども、この辛抱だけはできませんと。さぁその出来ん辛抱を神に縋ってするのぞと仰った。さぁ桂松平が表から出したら裏から入れ。裏から出されたら表から入れというて返されたということです。その辛出来んそれを辛抱する事が辛抱だと仰る。
成程そういう辛抱をされたからこそ、あの大徳をやはり受けられたのだと私は思います。今日はいうならばまぁぎりぎりのお話しです。改まる事によってそのやはり決心こそその辛抱こそ、やはり徳を受ける徳のいわゆる真の力になるんだということ。信心にはね自分で自分の心がどういう場合であっても潤う。例えばそれこそ自分の様な者でも、神様がおかげを下さるという気になれば、おかげを頂くということでしたが。
その自分の様な者でもというところをどこを焦点において、自分の様な者と言っておるか。改まらなん事は分かっとるけれども改まれん。そこをいうならば、自分様な者と言うておるのではないか。それでおかげを受けてもです、もう自分の様な者ではおかげ頂きっきるめ、と言うたらおかげは頂かれん。自分の様な者でもというところにおかげが頂ける。そんなら自分の様なのでもと言うておるところはどうかというと。
本当いうたらそこを改めていくのが信心です。それにはやはり決心がいる。そん時にいうならば神様が力を下さる。自分の心が潤うということ。それには例えば昨日の敬親会の方達が言われる様に、お参りしただけでも何とはなしに心が潤う。そのうえ有り難いお話しを頂くとなお潤う。そこでならそのお話しを頂いて帰って、それを実行するそれを人に伝えていくと言う様な、在り方になれば尚潤う。
そういう潤うた心でです、私はいよいよ改まると言う事によって、力を頂いていかなければならない。神様へのお礼。それは日々おかげを受けておる話を、一言でもよいから三分ずつでもよいから、その有り難いおかげを受けておるお話しを人に伝えていける。それが真の道を踏んでゆくのぞと。真の道というのは、ここにこう言う様な立派な、真の道がありますよというのではなくて、真の道というのは、自分が作って自分が踏み広げていく道なんです。
おかげを受けてそれを人に伝えて行くと言う様な生き方、それをいうならお礼と同時に、それをそれこそ信司郎さんじゃないけれども、それをお礼信行と思うて人に伝えて行くと言う様な精進。そすというならいよいよ自分の心が潤っていくための精進。同時にいよいよ自分が改まった上にも改まっていこうとする努力。その努力それこそが信心の力になる。いういう言うならば様々な内容が、信心には必要だと言う事を聞いて頂きました。
どうぞ。